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大阪高等裁判所 昭和60年(ネ)1677号 判決 1988年3月28日

控訴人 阿多洋子

右法定代理人後見人 阿多正夫

<ほか二名>

右三名訴訟代理人弁護士 山本諫

同 小越芳保

控訴人阿多正夫訴訟代理人弁護士 石川寛俊

被控訴人 医療法人榮昌会

右代表者理事 吉田左登

右訴訟代理人弁護士 佐伯千仭

同 米田泰邦

主文

一  原判決中控訴人阿多洋子関係部分を取り消す。

被控訴人は、控訴人阿多洋子に対し、金五〇〇〇万円及びこれに対する昭和四九年九月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  控訴人阿多正夫、同阿多玉端の控訴に基づき原判決中同控訴人ら関係部分を次のとおり変更する。

被控訴人は控訴人阿多正夫、同阿多玉端それぞれに対し金三〇〇万円及び右各金員に対する昭和四九年九月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

同控訴人らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は第一、二審を通じ、控訴人阿多洋子と被控訴人との間で生じた分は被控訴人の負担とし、控訴人阿多正夫、同阿多玉端と被控訴人との間で生じた分はこれを五分し、その二を同控訴人らの、その余を被控訴人の負担とする。

四  この判決は第一項及び第二項中控訴人阿多正夫、同阿多玉端の勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実

一  当事者の求めた裁判

1  控訴人ら

(一)  原判決を取り消す。

(二)  被控訴人は、控訴人阿多洋子(以下「洋子」という。)に対し金五〇〇〇万円、同阿多正夫(以下「正夫」という。)、同阿多玉端(以下「玉端」という。)それぞれに対し金五〇〇万円及び右各金員に対する昭和四九年九月一九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(三)  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

(四)  第(二)項につき、仮執行の宣言。

2  被控訴人

(一)  本件控訴を棄却する。

(二)  控訴費用は控訴人らの負担とする。

二  当事者の主張

次のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

1  控訴人らの主張

(一)  控訴人洋子が植物状態に陥った原因は、フグ毒の排泄によって症状が快方に向かっていた昭和四九年一月一日の午前一一時ころから同一二時にかけて、換気不全による低酸素状態(低酸素血症ないし高炭酸ガス血症)が進行し、呼吸停止及び心停止を招来したことによるものである。

(二)  右(一)は平山医師の管理下で控訴人洋子がICUに入室中に生じたものであるところ、同控訴人が換気不全による低酸素状態に陥っていたことは、遅くとも一日の午前一一時三五分ころには予見でき、かつ、回避可能であったにもかかわらず、平山医師は低酸素状態の進行を全く予見できず、何ら改善の処置をとらなかった過失により、前記呼吸停止及び心停止を招来させた。

(三)  昭和四九年当時のフグ中毒に関する知見によれば、かなりの重症例でも調節呼吸のみによって救命できると考えられており、遅くとも呼吸停止以前に人工呼吸を開始しておればおそらく一〇〇%救命可能とされていた。控訴人洋子は被控訴人病院入院時呼吸困難を訴えていたとはいえ、それは呼吸停止以前の状態であり、その後、現に症状の改善をみているのであるから、平山医師が洋子の臨床所見を十分観察して呼吸管理を怠っていなければ、本件の結果は回避し得たものである。

2  被控訴人の反論

(一)  控訴人洋子には、被控訴人病院搬入までに、低酸素状態の継続による低酸素血症・高二酸化炭素血症や、これに伴う脳障害が発生していたもので、被控訴人病院入院後の呼吸管理にかかわらず、これが十分に改善できず、脳圧亢進と脳浮腫を進行させ、心・呼吸停止に至ったものであり、しかも、この心停止やその後の心不全状態には、心筋障害所見が示している心機能の異常の影響も無視できない。

(二)  平山医師は、控訴人洋子の血圧上昇の原因について、挿管の刺激によるもののほかに、被控訴人病院入院時までの低酸素状態の影響を受けた頭蓋内圧の亢進を想定し、これに対し、適切な対応をしたものである。

(三)  控訴人洋子の症状は、十分な呼吸管理さえすれば救命できるという単純なものではない。被控訴人病院では、当時の医療水準で要求される観察を尽くしていたものであり、控訴人洋子には低酸素症を示す臨床的な所見がなかった。

三  証拠《省略》

理由

一  請求原因1のうち、(一)の事実は、被控訴人において明らかに争わないから、自白したものとみなし、(二)の事実は、当事者間に争いがない。

二  まず、控訴人洋子の病状の推移、診療経過等について検討する。

控訴人洋子が、昭和四九年一月一日被控訴人病院に搬入されて大井医師の手当を受け、気管に気導管が挿入されたこと、その後集中治療室に収容されてバードによる人工呼吸が開始されたことは、当事者間に争いがない。

右争いのない事実に、《証拠省略》を併せ考えると、次の事実が認められる。

1  控訴人洋子は、昭和四八年一二月三一日午後一〇時三〇分ころから、肩書住居地の自宅において、両親の控訴人正夫、同玉端、姉の大友和子(以下「和子」という。)、阿多靖子(以下「靖子」という。)、兄の阿多澄夫(以下「澄夫」という。)とともに、調理士の免許を有する和子の夫大友常夫(以下「常夫」という。)の調理したフグ料理を食した。

ところが、翌四九年一月一日午前二時三〇分を過ぎたころ、常夫を除く控訴人ら全員が、口唇周辺のしびれ感と歩行時のふらつきを覚え、しかも、これら症状が次第に進行する気配であったため、掛り付けの飯田医師に往診を求めた。駆け付けた同医師は、控訴人らを診察の上、入院措置を相当として同日午前三時三〇分救急車の出動を要請した。

同日午前三時三四分二台の救急車が控訴人ら方に到着し、控訴人正夫、同玉端、澄夫は、飯田医師に付き添われて救急車に収容され神戸大学付属病院に向い、他方、控訴人洋子は、和子、靖子とともに別の救急車で西市民病院に向った。

2  控訴人洋子は、同日午前三時五〇分西市民病院に搬入され、直ちに唐土医師の診察を受けたが、その際、口唇周辺と肘のしびれを訴え、心音は清澄、血圧は一〇四ないし六〇で正常範囲であり、肺部にラッセル音なく、腹部にも異常は認められなかったものの、心拍の亢進、悪寒がみられ、膝蓋腱反射はすでに左右とも消失していた。そこで、同医師は、ヒマシ油(下剤)の投与、ブドウ糖の点滴を行ったが、同控訴人洋子のしびれが舌にも及び、さらに増悪する傾向を示したため、酸素吸入を開始するとともに、入院により経過観察するを要するものと認めたが、当時同病院の入院病棟が満床であったので、当直担当者を通じて被控訴人病院に連絡をとった。被控訴人病院の担当者は、フグ中毒による軽症患者であるとの説明を受け、同控訴人の受入を承諾した。なお、西市民病院に控訴人洋子らを搬入した救急隊員は、同日午前四時九分病院をいったん引揚げているが、その際、同病院医師から、和子、靖子についてはともに「軽症」、控訴人洋子については「中等症」との説明を受け、その旨救急出勤報告書に記載した。

3  控訴人洋子は、同日午前四時二五分西市民病院から救急車により搬出されたが、当時意識に混濁はなかった。車中では、同病院から付添った山口和代看護婦が、引き続き点滴を続行したが、同車備付けの人工呼吸器等を使用して酸素吸入を実施することはなかった。この間、同控訴人は、山口看護婦が「気分はどうか、苦しいか。」と尋ねたのに対し、うなずき、頸部をさする仕草をしたりしていた。

4  被控訴人病院では、外来当直の佐々木清子婦長と当直事務員とがストレッチャーを用意して待機していたところ、同日午前四時四三分、控訴人洋子を乗せた救急車が到着したので、救急隊員の協力を得て、点滴を続けたまま同控訴人をストレッチャーに移し、外来診療室に運び入れた。佐々木婦長は、前記山口看護婦に対し点滴内容を質し、西市民病院に電話で確認させるとともに、救急隊員から控訴人洋子の住所、氏名、生年月日等を聴取してこれらを救急用診療録に記入した後、同控訴人の容態を観察したところ、呼吸がほとんどなく、顔面蒼白で口唇が紫色に変色し、チアノーゼが現われているのに気付き、西市民病院から連絡のあった「軽症」とは著しく異なっていることに驚き、そのころ同診療室に入り文献で救急法を確認していた当直の大井医師にその旨を報告した。同医師は、直ちに、控訴人洋子を診察したが、右報告どおり、ほとんど無呼吸の状態で、意識は昏迷し、全身の筋力は完全に麻痺し、両眼の瞳孔は散大し、しかも左右の大きさに軽度の不同がみられ、左眼の対光反射に遅延がみられたため、早急に呼吸管理の処理をとる必要があると判断した。そこで、同医師は、佐々木婦長ほか一名の外来看護婦、さらに途中からは三階集中治療室及び一般病棟担当で宿直の中村成子看護婦の補助も受け、筋弛緩剤を用いないで筋力の麻痺している控訴人洋子の口腔部からその気管内に気導管を挿入し、これに手動式の吸入器を接続して人工呼吸を開始した。なお、山口看護婦及び救急隊員は、大井医師のこれら一連の処置を見届けた後、同日午前五時一五分被控訴人病院を引揚げたが、その際、救急隊員は、控訴人洋子の症状の程度につき、大井医師から説明を受け、救急出動報告書に「重症」と記るした。

5  大井医師は、右処置後の同日午前五時二〇分、控訴人洋子を集中治療室(ICU)に移した後、同室のバード(人工呼吸器)に前記気導管を接続して自動式の人工呼吸を開始するとともに、脈拍・体温・心電図を自動的に測定する機器を用いて隣の看護室からモニターによる監視を行うこととした上、低酸素状態に伴う脳浮腫とフグ毒に伴う心臓ショックを懸念し、これらに即効性があるとされる副腎皮質ホルモンのソルコーテフや強心剤のビタカンファー等を投与し、経過を観察することにした。なお、同医師は、右観察のため診療録中の指示簿に継続指示として「バードによる調節呼吸は自発呼吸の出るまで(本日正午までは恐らく必要)続けます。抜管は、その後、当直医の指示にて行なって下さい。血圧・脈拍・意識・瞳孔・筋力を頻回にチェックして下さい。瞳孔散大、筋力低下は一二時間続きます。」と記載している。

6  控訴人洋子は、その後大井医師及び前記中村看護婦らによって観察されることになったが、同日午前八時過ぎころまでは、血圧は上が一二四ないし一三四、下が六〇ないし一〇〇、脈拍が九五ないし一〇四とよく保たれていたものの、応答・痛覚・体動・自発呼吸はみられず、瞳孔の状態も変わりがない状態であった。もっとも、大井医師は、同日午前六時三〇分心電図モニターに心筋梗塞を疑わせる所見がみられたとしてソルコーテフを投与したが、その後の心電図に格別異常所見は見受けられず、血圧・脈拍とも前記の状況で推移していて、心機能に著変は認められなかった。

7  同日午前八時三〇分ころ、中村看護婦は、控訴人洋子に接続されていたバードが不規則音を発していることに気付き、その調整を行ったところ、同控訴人に自発呼吸が戻っていることを確認し、直ちに同時点の心電図を添えて大井医師にその旨報告した。同医師は、心電図に異常が見られないが、呼吸についてなおそのまま観察を続けるよう指示を与えた。さらに、同看護婦は、同日午前八時四〇分、瞳孔の状態は同様の状態が続いていたものの、血圧は一三四ないし八四、脈拍は一〇四と安定し、名前を呼ぶと開眼し、自発呼吸も引き続き見られたため、再度同医師にその旨を伝えた。なお、同看護婦ら二名の看護婦は、同日午前九時前ころ、松田八千代、松本美枝子ら四名の当直看護婦に病棟看護を引き継いだ。

一方、大井医師は、同日午前九時、中村看護婦の報告や自ら診察した結果からバードによる調節呼吸を中断し、酸素テントを使用して酸素供給を行う処置をとった。もっとも、同医師は、なお筋麻痺が続いているところから、自発呼吸の急変に備え、いつでもバードを使用できるように気管内挿管を存置しておくこととし、その抜管の時期についての判断は、当直医師に委ねることにした。さらに、同医師は、同日午前九時三〇分にも控訴人洋子を診察し、対光反射・瞳孔の不同に改善が認められないが、意識がほとんど清明あるいは傾眠状態、呼吸も十分深い自発呼吸が保たれていることを確認し、右処置を続行することにし、その状態で同控訴人の治療を平山医師に引き継いだ。

8  その後同日午前一一時まで、控訴人洋子の診療録(看護記録を含む。)には、何らの記載もなく、この間の病状の推移は詳らかではない。

同日午前一一時、控訴人洋子は、名前を呼べば開眼し、痛覚も回復し、握手にもわずかに応じたが、血圧が二〇〇ないし六〇に上昇し、脈拍も一二〇と頻脈傾向を示し、発汗もみられた。そこで、松田看護婦は、直ちに平山医師に対し、右異変を上申したが、同医師は、しばらく様子をみるよう指示したにとどまった。

同日午前一一時二〇分、控訴人洋子は、不随に開眼するだけで名前を呼んでも応答せず、睫毛反射は消失して、発汗がみられ、痛覚も鈍化し、血圧はさらに上昇して二一〇ないし九〇となり、脈拍は一二〇で頻脈傾向が続きしかも不整脈が現われ、痙攣がみられた。同控訴人のこのような病状の変化は、平山医師にも伝えられたが、同医師は、なお経過観察の続行を指示したにすぎなかった。

同日午前一一時三五分、控訴人洋子は、痙攣はみられなくなったが、応答・痛覚ともに消失し、胸郭運動からみて浅呼吸となり、爪にチアノーゼが現われ、血圧は二二〇ないし九〇とさらに上昇し、脈拍も不整脈はみられず、一四四と頻脈傾向が一段と進行した。

平山医師は、引き継ぎを受けた後、控訴人洋子を診察したことは一度もなかったところ、看護婦から右のとおり容態の悪化を伝えられるに及び、同日午前一一時四五分、同控訴人を診察したが、既に同控訴人は昏睡状態に陥っていた。同医師は、臨床所見中、専ら血圧に着眼し、頭蓋内圧の亢進に伴い意識障害が生じる一方右亢進に対し二次的に血圧が上昇するいわゆるクッシング現象が現われ、血圧の上昇がもたらされたものと判断し、同日午前一一時五〇分から松本看護婦に付添われて頭蓋内圧降下作用のある副腎皮質ホルモンであるデカトロンの注入及びマニトンSの点滴を実施した。

9  ところが、同日午後零時、控訴人洋子の呼吸は停止した。平山医師は、松本看護婦からの連絡で、直ちに駆け付け、心臓の停止を確認し、心臓活性化・血圧上昇剤ボスミンを心臓に注入した上、心マッサージ蘇生術を行うとともに、バードによる調節呼吸を再開した。この結果、同控訴人は、同日午後零時三〇分には血圧が一八〇ないし七〇と上昇し、同日午後零時四五分には血圧は一四四ないし七〇となり、チアノーゼもみられなくなった。

10  しかし、控訴人洋子は、同日午後一時過ぎころ呼吸状態に異常をきたしたため、バードが不規則音を発するようになって停止した。集中治療室に収容中の他の患者の付添をしていた小延輝昭が右状態に気付き隣室の松田及び松本看護婦に知らせた。両看護婦は即座に控訴人洋子の許に駆け付け、呼吸停止のほか、顔面のチアノーゼ及び四肢の冷感を認めたため、松本看護婦は手動で人工呼吸を開始し、松田看護婦は平山医師にこれを知らせた。これを聞いて駆け付けた同医師は、同日午後一時一五分心臓の停止を確認した上、ボスミンを心臓に注射して蘇生術を施行した結果、心臓が動き始め、併せてバードの調整をしてその使用を再開した。その後、控訴人洋子の血圧は、同日午後一時二五分にはいったん一八四ないし七八と上昇したが、以後測定不能あるいは低血圧の状態が続き、同日午後三時四五分にはようやく一二六ないし六〇になった。その他の症状は、同日午後三時には、チアノーゼは消えたが、上半身の軽微な痙攣及び四肢の冷感がみられ、その後これらは収まったものの、対光反射・痛覚・体動はなく、瞳孔は散大し、左右不同の状態が続いた。

11  被控訴人病院副院長吉田耕造医師は、同月二日午前一〇時ころ、控訴人洋子を診察したところ、自発呼吸が戻り、睫毛反射のあることを認めたが、昏睡状態で、中枢神経の伝達経路が遮断されていることを示すバビンスキー反射が出現していることを確認し、無酸素の影響による植物状態になる恐れがあると判断した。その後、控訴人洋子は、同日午前一一時三〇分にはバードの使用を中止され、対光反射がみられるようになり、同日午後一一時一〇分には痛覚も回復したが、他の異常な状態はその後の薬物の投与等にもかかわらずほとんど改善されず、植物状態が続いた。

12  控訴人洋子は、同年八月二一日植物状態のまま被控訴人病院から医療法人十善会野瀬病院に転院した後、同五一年八月二五日同病院を退院し、現在神戸市立中央病院に通院しながら自宅において控訴人正夫及び同玉端らの看護のもとで療養生活を続けている。

以上の事実が認められる。

ところで、右4で認定した事実に関し、《証拠省略》によれば、被控訴人病院の救急用診療録中には、一月一日午前五時二〇分呼吸障害にて緊急入院した、あるいは、担送入院した旨及び午前五時二五分に挿管した旨の、右認定に反するかのように読めないわけではない記載が存在する。しかしながら、《証拠省略》によれば、前者の入院に関する記載は、いずれも、同日午前五時二〇分控訴人洋子が外来診療室での処置が終ってストレッチャーで集中治療室に搬入収容されたことを意味するものであり、また、後者の挿管に関する記載は、同日午前五時二五分までに手動式人工呼吸からバードによる自動式人工呼吸に完全に切り換えたことを意味すのものであることが認められるから、右各記載は、単に表現上不適切なものがあったというにとどまり、右認定を左右するものでない。

また、右8で認定した事実に関し、《証拠省略》の前記診療録中には、一月一日午前一一時平山医師が控訴人洋子を診察し、マニトン及びデカドロンの投与を指示した旨の、右認定に反するかのような記載が存在する。しかしながら、《証拠省略》によれば、右「午前一一時」は「午前一一時四五分」の誤りであることが明白であるから、右認定の妨げとはならない。

さらに、右10で認定した事実に対し、《証拠省略》中には、同人が控訴人洋子に接続されたバードの不規則音に気付いたのは同日午前一一時三〇分ころである旨の供述記載及び証言部分が存在するが、《証拠省略》に照らし、右時間に関する供述記載及び証言部分は信用することができない。

三  次に、フグ中毒及び低酸素症に関する医学上の一般的知見について検討する。

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、これを左右するに足りる証拠はない。

1  フグ中毒について

(一)  フグ中毒は、各種のフグの肝臓等に含まれるテトロドトキシンの毒性によるものであって、それの人体に対する薬理作用は、末梢神経等において、細胞膜のナトリウム輸送の抑制によりナトリウムイオンの透過性を阻害して活動電位の形成を阻止し、他方、神経接合部等において神経末端から放出される化学物質を減少させるというもので、このため、人体におけるあらゆる刺激伝導系経路が遮断される可能性がある。

(二)  フグ中毒は、摂取後三〇ないし六〇分から遅くとも四時間半位までに悪心、嘔吐を初徴として発症するとされ、それ以後死の転帰に至るまでの症状の経過は、普通、次の四段階に分類される。

第1度 口唇、口囲、舌端、指頭のしびれ感(知覚麻痺)が生じる程度、時に嘔吐もおこる。

第2度 皮膚覚、味覚などの知覚鈍麻がき、手指、上下肢の運動麻痺もでてくる。ただし、腱反射はなお存在する。

第3度 運動まったく不能となる。骨格筋弛緩、発声不能(声帯麻痺)、嚥下困難、チアノーゼ、血圧下降をきたすも意識なお明瞭。

第4度 意識混濁、血圧の著しい低下、呼吸停止により死亡。ただし心拍動はなおしばらく存在する。

もっとも、右の分類は、知覚障害、運動麻痺、循環障害を基本的症状として分類したものであり、前記(一)でみたフグ毒のもたらす神経伝導路の遮断という作用が人体に及ぼす影響のうち最も問題の多いものは運動麻痺中の呼吸麻痺に伴う呼吸障害と循環不全に伴う循環障害であるとされている。

(三)  フグ毒による呼吸筋の麻痺は、フグ摂取後四ないし六時間以内にかなり急速に発現するもので、自発呼吸を抑制する結果換気障害を招き、肺に十分な酸素が供給されず、呼吸不全の状態に陥る結果、血液中には酸素が減少して二酸化炭素が増大するようになり(低酸素血症、高二酸化炭素血症)、低酸素症が発生する。フグ毒が解毒排泄される時間は普通八時間ないし九時間であるが、呼吸筋を含む運動筋の麻痺が完全に回復するには相当な時間の経過を必要とし、この間はたとえ自発呼吸が戻ったとしても、筋麻痺による呼吸の抑制が残存するため、換気障害による呼吸不全、低酸素症に陥る可能性が少なくない。

そして、呼吸不全による低酸素症の臨床症状は、一般に循環系、呼吸系、脳中枢系に分けて考えることができる。循環系では、初期から重要な徴候として頻脈がみられ、血圧・体温も上昇して、次第にチアノーゼがみられるようになり、末期には徐脈、不整脈、低血圧が現われる。呼吸系では、当初呼吸中枢が刺激されて呼吸促進(深さよりも数の増加)がみられるが、次第に呼吸中枢が抑制されて不足呼吸となる。脳中枢系では、種々の程度の意識障害(傾眠、昏迷、昏睡)及び脳神経症状として痙攣や病的反射出現等が起こる。

(四)  フグ毒による循環系障害は、本件当時、前記分類にある血圧降下を挙げるものが一般的であった。もっとも、文献のなかには、実験では、呼吸管理を行ってもフグ毒の量が多いときには低血圧及び徐脈や、心電図上期外収縮が認められるとしながら、経験した症例や文献に当って調査した症例のなかには、「重症であって回復した例に著明な血圧低下が持続した症例」は見当たらないことを指摘するものもあった。

ところが、その後、(イ)フグ中毒発症の初期段階では、血圧は低下せず、むしろ上昇し、頻脈傾向さえ示すとした症例七例(乙第六号証、甲第二二号証)や、(ロ)人工呼吸器で呼吸管理中において心電図上ST波の上昇若しくは下降がみられ、著明な血圧変動を来した症例二例(乙第七号証)が相次いで報告され、にわかにフグ毒による循環障害の病態の多様性が注目されるに至った。もっとも、右(イ)の症例の場合は、循環動態の観察以外循環系に対し直接的な改善措置を講ずるまでもなかった例であり(この報告は、昇圧剤・強心剤・呼吸中枢刺激剤の投与効果に疑問を投げかけている。)、また、右(ロ)の症例の場合も、わずかに血圧の変動に応じ必要最少限の昇圧剤・降圧剤投与を実施した例であって、いずれも前記(三)でみた呼吸筋麻痺に対する措置により後遺症を残すこともなく全治したとするもので、循環系の障害に関しては、右(イ)の報告では、患者が高血圧等の循環系基礎疾患を有する場合には臨床的にも重要である旨を、また、右(ロ)の報告では、循環系の変動には呼吸困難や気管内挿管等の呼吸系のストレスの影響も見逃せないとした上、呼吸の状態等の影響で循環系が不安定になることを念頭に置くべきである旨をそれぞれ指摘するにとどまっている。また、右報告と同時期の症例報告でも、フグ中毒による急死例中には、テトロドトキシンの循環系に対する作用に起因するものがある可能性は否定できないとしながら、治療の対象となる中毒患者については、右作用が直接に臨床的な意味があるかは疑問であるとし、ただ、重症例ではフグ毒の循環系に対する影響も念頭に入れ、心電図によるモニターを続行し、異常所見を発見すれば、その都度処置を考える程度で足りるとし、何よりも呼吸筋麻痺に対する対応を根本とすべき旨強調している。

したがって、フグ毒による循環障害それ自体は、今日に至るまで、臨床的には心停止を来たす致命的なものとは考えられていない。

(五)  そのほか、フグ毒は、自律神経系に障害をもたらし、これが瞳孔散大・対光反射消失又は遅延となって出現する。そして、右症状の回復は知覚障害、運動麻痺等の回復よりもかなり遅れる(ちなみに、《証拠省略》では、わざわざフグ中毒による右症状の推移を予め知り、診断上の混乱をきたすことのないよう注意を喚気しているくらいである。)。

2  低酸素症について

(一)  呼吸不全により低酸素症に陥ると、脳組織に対する酸素供給量が減少し、初期には代償機能が働くが、これが限度を超えると脳に病変をもたらす。脳組織のうち、大脳・小脳の皮質はこのような病変に侵されて損傷されやすく、脳幹・脊髄は最も損傷を受けにくいとされ、植物状態というのは、右皮質等が損傷され、脳幹・脊髄構造だけが正常に残されている場合をいうとされている。

(二)  脳の病変は、その発生の機序は詳らかではないが、浮腫が発生することから始まり、これは脳実質の膨脹した状態であるため、放置すれば、頭蓋内圧の亢進を招くことになる。また、脳浮腫は、交感神経刺激を介し肺水腫を発生させて低酸素症発生の悪循環を形成し、頭蓋内圧の亢進そのものも、血圧の上昇を招くとともに、脳血流を機械的に阻害し低下させて虚血を助長し、脈拍は徐脈となる。そして、脳の不可逆的な病変とは、浮腫がある一定の段階を超えて進行する過程で生じると考えられており、浮腫にとどまっている限り、後遺症を残すことなく治療することも可能であるとされている。

(三)  臨床的には、脳の不可逆的変化は、ほぼ次のような経過で生じるとされる。すなわち、

(イ) 心停止(虚血)の場合には、通常人でも四ないし六分で脳に不可逆的な病変を生じる。低酸素症が先行しているときはわずか一ないし二分の心停止で恒久的な神経障害を残した例がある。なお、低酸素症が亢じ無酸素症に陥れば、二ないし三分で心停止を招く可能性がある。

(ロ) 低酸素症による心収縮力の抑制、それによる低血圧(循環不全)は右(イ)の心停止がなくとも、およそ一〇分で脳に不可逆的病変を生じる。

(ハ) 心停止や循環不全を伴わない低酸素症がどの程度持続すれば、脳に不可逆的病変をきたすかは、未解決であるが、臨床上は、未だ一度も意識を失っていない場合の酸素不足は、程度のいかんにかかわらず、神経系に恒久的障害をひき起こす原因となる可能性はまずないとされている。

四  そこで、進んで、控訴人洋子が植物状態になるに至った原因について検討する。

1  前記二(病変の推移、診療経過に関する事実)及び三(医学上の一般的知見に関する事実)で認定した事実に、《証拠省略》を併せ考えれば、次のとおり認定判断することができる。

(一)  控訴人洋子は、西市民病院から被控訴人病院に転送される間に、フグ毒による呼吸筋の麻痺のため急性呼吸不全の状態となり、低酸素症に陥ったことは否定できない。しかし、同控訴人は、被控訴人病院での気導内挿管による人工呼吸開始の時点では、呼吸停止、心停止あるいはこれと同視すべき循環不全(低血圧)の状態にあったわけではなく、また、意識を喪失したこともなかったというのであるから、右低酸素症が脳に不可逆的な病変をひき起こすことは、まずあり得ないというべきである。

(二)  控訴人洋子は、バードによる調節呼吸が試みられた結果、血圧・脈拍は安定し、脳神経症状も全くみられないまま、フグ摂取の八ないし九時間後にあたる一月一日午前八時四〇分ころから同日午前九時三〇分にかけて意識・呼吸状態に著明な改善がみられるようになったというのであるから、この間、フグ毒による呼吸筋の麻痺状態が続いていたにもかかわらず、バードによる換気改善により、呼吸不全をひき起こすこともなく、しかも、前記(一)でみた低酸素症の影響も除去しながらフグ毒の解毒排泄時間帯に入り、呼吸筋の麻痺自体の回復する過程が始まり、それに伴って、意識の改善と自発呼吸の回復がみられるようになったというべきである。

(三)  ところが、控訴人洋子は、フグ毒の薬理作用が消失に向っている一月一日午前一一時以降、頻脈、血圧の上昇、体温の上昇に伴う発汗を初発として、意識障害、痙攣、浅呼吸、爪のチアノーゼが相次いで現われ、同日午前一一時四五分昏睡状態に陥り、同日午後零時呼吸停止、続いて心停止に至り、その後、蘇生術や調節呼吸により一時心機能そのものは回復したが、呼吸状態が変調を来たし、同日午後一時一五分ころ再び呼吸停止、心停止に陥ったというのである。してみると、被控訴人病院の診療録にこの間の呼吸に関する症状の詳細が記載されているわけではないけれども、前記三でみた医学上の一般的知見に照らせば、頻脈、高血圧、体温上昇に伴う発汗に始まる爾後の症状の推移は、低酸素症の進行を如実に物語るものであり、その原因は、フグ毒そのものの解毒排泄過程が始まったとはいえ、筋麻痺による自発呼吸の抑制効果が残存していたため、自発呼吸のみでは換気が十分でない状態が続き呼吸不全に陥ったことにあると認めるのを相当とする。そして、低酸素症の脳に対する影響が痙攣となって現われたのちの同日午前一一時四五分には意識を完全に喪失し、そのまま、同日午後零時呼吸停止に続いて心停止をみたのであるから、右心停止の前後において、呼吸不全による低酸素症は、遂に控訴人洋子の脳組織に対し不可逆的な病変をひき起こしたものであり、前示の午後一時すぎの二回目の呼吸停止・心停止は右病変に追い打ちをかけて植物状態を決定的にしたと推認することができる。したがって、平山医師が同控訴人を初めて診察した時点では、同控訴人に低酸素症による脳浮腫が発生していた可能性はあるが、人工呼吸器による調節呼吸等の措置を受けることによって優に植物状態を免れる可能性があったというべきである。

2  以上の認定判断に対し、被控訴人は、控訴人洋子には被控訴人病院入院時までの低酸素状態の継続により一定の不可逆的な脳障害が発生しており、入院後の十分な呼吸管理にもかかわらず、右脳障害が改善できず、脳圧亢進と脳浮腫を進行させて二度にわたる呼吸停止・心停止を招いて致命的な脳障害を完成させたもので、この心停止には心機能の異常も無視できない旨主張し、これに副う証拠も存するので、以下この点について検討する。

(一)  まず、控訴人洋子の被控訴人病院搬入時の容態に関し、《証拠省略》中には、控訴人洋子は被控訴人病院搬入時既に脳梗塞に陥っていたと述べる部分が存在するけれども、原審証人大井静雄の証言のほか、前記1冒頭掲記の各証拠に照らし到底採用することができない。

右の点に関連して、当審証人太田保世の証言中には、控訴人洋子は被控訴人病院搬入時重篤な低酸素状態にあったとした上、午前八時四〇分から午前九時三〇分までの間の臨床所見の改善は単にフグ毒による呼吸筋の麻痺が回復しつつあることを意味するものにすぎず、午前九時三〇分の時点においてなお「意識の昏迷、瞳孔散大、対光反射遅延」がみられること自体、依然として右搬入前の低酸素状態及びその二次的変化が改善されていないことを裏付ける旨述べる部分が存在する。しかし、《証拠省略》によれば、午前九時三〇分現在「意識はほとんど清明あるいは傾眠(almost clear or somnolence)」とあり(前記大井静雄証言によっても、「昏迷」ではなく「傾眠」であることが明らかである。)、この状態は搬入当初の「昏迷(stupor)」に比して著しい改善を示す所見である上、文献(呼吸障害と意識障害を伴う重症患者二例につき後遺症なく治癒した例を報告している。)によっても、意識障害の回復過程にみられる極くありふれた一症状にすぎないことが明らかであり、また、「瞳孔散大・対光反射遅延」も、前記三、1、(五)でみたとおり、フグ毒の自律神経障害に基づく症状として発現しているものにすぎないと考えられるから、これらの症状が残存していることをもって、搬入時の低酸素症及び二次的変化が改善しないことの根拠とすることは無理であるといわなければならない。そのほか、前示のとおり、血圧、脈拍が正常域に復しかつ脳神経症状が一切みられないことを勘案すれば、右証言部分は採用することができない。

なお、平山医師は、午前一一時四五分はじめて控訴人洋子を診察した際、血圧の上昇等を頭蓋内圧の亢進に対する生体の二次的反応としてクッシング現象と診断しているが、同現象とすれば、前記医学上の知見に照らし、脈拍は頭蓋内圧の亢進に伴い徐脈となるのが一般的であるところ、同控訴人の午前一一時以後の臨床所見は一貫して頻脈であって食い違う上、同医師の診断は呼吸も含めたバイタルサイン(生命諸兆候)の変動全体に基づく病態把握とはいい難いものであり、この診断に左袒することはできない。

(二)  次に、フグ毒による心筋障害に関し、当審鑑定人宮崎正夫の鑑定結果中には、フグ毒の心筋障害作用を強調する部分があるけれども、同鑑定人自身、当審証言において、控訴人洋子の午前一一時以後の臨床症状につき前記認定判断と同旨の見解を示し、血圧の動向等から考え、心機能自体の異常はなかった旨述べている点からみて、右鑑定結果部分はフグ毒の作用に関する一般的見解にとどまり、本件の具体的事案に直接あてはまるものではないと解される。

また、被控訴人が援用する前記乙第六、第七号証も既に前記三、1、でみたとおりである上、乙第六号証の病例七例は、フグ中毒の発症の初期(来院時)に血圧の上昇と頻脈がみられただけで、入院措置をとった三例は、いずれも血圧は徐々に下がり(一例は急低下もみられた。)、脈拍も速やかに正常範囲に復した(呼吸停止した一例も調節呼吸後安定した。)例であり、また、乙第七号証の症例二例も、発症の初期(来院時)に血圧の上昇がみられただけで、脈拍は正常範囲であり、入院後調節呼吸中に血圧の変動を来した例であって、控訴人洋子のように、血圧、脈拍も良好に保たれ症状の改善をみながら、調節呼吸中止後高血圧と頻脈がともにみられた例ではないから、前記1の認定判断を妨げるものではない。

なお、一月一日午前六時三〇分心電図モニターで認められた異常所見は、《証拠省略》に照らし、その後の同控訴人の病状の動向に影響を及ぼすものとは認め難い。そして、他に被控訴人の主張を支えるに足りる証拠は見当たらない。したがって、この点に関する被控訴人の主張は採用できない。

五  よって、被控訴人の責任について検討する。

1  フグ中毒の治療について

前記三で認定した事実に、前記四、1冒頭掲記の各証拠を併せ考えれば、次の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  フグ毒に対する有効な解毒剤は今日に至るまで実用化されていないため、フグ中毒に対する治療法は、呼吸筋の麻痺に対する呼吸管理と主に低血圧に対する循環系の管理を中心とした対症療法になる。しかも、前記三で認定したとおり、フグ中毒の最も深刻な影響は呼吸不全による低酸素症において現われるものであるから、治療の中心は低酸素症の進行をくい止める呼吸管理に力点が置かれることになる。

(二)  したがって、適切な呼吸管理を行うには、呼吸筋の麻痺に伴う低酸素状態(低酸素血症及び高二酸化炭素血症)の発生の有無とその推移を的確に把握する必要があり、それには、呼吸、血圧、脈拍、体温等バイタルサインの変動を厳重に監視することが必須であり、とりわけ、呼吸の状態については、本件当時の医療水準の下でも、胸郭の呼吸運動がどうか、呼吸補助を必要とする状態にないか、チアノーゼがあるか、呼吸音が正常に聴取されるか、意識状態はどうか等をチェックするのが一般的であり、臨床的には、このような観察を通じ、かなり的確な呼吸状態の把握が可能であった(ちなみに、現在では、専門病院、大学病院等において測定器を用いた動脈血のガス分析が行われているが、その場合でも、基本的には臨床所見を重視していることに変わりはない。)。

また、呼吸麻痺に伴う低酸素症に対する予防ないし治療法としては、自発呼吸が十分ある場合には、酸素テント等を使用した酸素療法を行い、自発呼吸が減弱している場合には、換気改善のために、気管内挿管・気管切開等を経た上、人工呼吸器(手動式若しくは自動式)を用いた調節呼吸を行うという方法が本件当時から既に確立していた。

(三)  そして、人工呼吸器を用いた呼吸管理を開始した場合には、途中患者に自発呼吸が回復しても、筋麻痺の続くときは、通常の呼吸と異なり換気が十分でない状態が生じるおそれがあるから、人工呼吸器の使用を中断するとしても、気管内挿管を残して気道を確保しておき、筋麻痺の完全な回復に至るまで、前記(二)と同じ呼吸その他のバイタルサインの頻回チェックを実施し、換気不全に陥るようであれば、再び調節呼吸を再開し、何ら異常が認められなければ右挿管を抜管して呼吸管理を終了する手順になる。

(四)  循環系の管理は、前記バイタルサインのチェックのほか、心電図モニターで監視するのが一般的であり、異常所見がみられる都度適宜の処置をとることで足りると考えられていた。

(五)  なお、低酸素症や虚血に続発する脳浮腫や頭蓋内圧に対する治療としては、まず何よりも原因疾患の除去でなければならないから、右(三)の呼吸管理と右の循環管理が必須であり、浮腫そのものに対しては副腎皮質ステロイド投与と高張溶液(マンニトール等)の点滴静注が中心となる。

2  大井医師の過失について

控訴人らは、大井医師には、控訴人洋子が被控訴人病院に搬入されたにもかかわらず約四〇分間何らの手当を行わず同控訴人を放置していた過失がある旨主張する。

しかしながら、既に前記二で認定、判断したとおり、同医師は同控訴人が被控訴人病院に搬入された直後、同控訴人を診察し、直ちに気導確保の措置をとった上、手動式の吸入器を用いて呼吸管理を開始したものであるから、同控訴人を放置したとする控訴人らの右主張はその前提となる事実を欠くもので採用できない。

3  平山医師の過失について

次に、控訴人らは、平山医師には、控訴人洋子が一月一日午前一一時以後換気不全の低酸素状態に陥っていたのに、これに気付かず、何ら改善の措置をとらなかった過失がある旨主張する。

よって、考察するに、まず、平山医師が大井医師から引継ぎを受けた時期における控訴人洋子の症状、医学上の一般的知見、症状の解釈等は、前記二ないし四で認定したとおりであり、同控訴人のフグ中毒症状は一応峠を越し、快方に向っていたものと認めるのを相当とする。

しかしながら、前記二ないし四及び五、1で認定判断したところからすれば、控訴人洋子に自発呼吸が戻ったとはいえ、筋力麻痺が未だ解消されていない段階のことであるから、自発呼吸だけでは通常の呼吸と異なり換気不全による呼吸障害を招来し、低酸素症を進行させる危険があったし、原審証人平山昭彦の証言によれば、平山医師は本件以前にもフグ中毒患者を治療したことがあり、右の危険を医師として十分弁えていたといえるから、同医師としては、人工呼吸器の使用中止後引継ぎを受けた担当医師として、バイタルサインの変動を厳重に監視すべきことはもとより、呼吸管理の一環として前示の方法(五、1参照)で同控訴人の呼吸状態の頻回観察を実施すべきであり、殊に、看護婦から午前一一時には血圧の上昇、頻脈、発汗等の、さらに午前一一時二〇分にはこれらに加え、応答の消失、不整脈、痙攣等の異常な症状が出現した旨の報告に接したのであるから、これら全症状とも符合する換気不全による低酸素症の発生・進行を疑い、速やかに右の呼吸状態の観察を実施し、時期を失せず適切な治療を施し、もって低酸素症のもたらす危険の発生を未然に防止すべき注意義務があったというべきである。ところが、同医師は、これらを怠り、大井医師から引継ぎを受けた後、同控訴人の呼吸状態はおろか、一般的身体症状の診察さえも行わず、看護婦から二度にわたり同控訴人の症状の異変を知らされながら、悪化する病態の把握に努めることなく、単に経過観察を指示し、午前一一時三五分、看護婦からチアノーゼ、浅呼吸等が加わった旨伝えられるに及び、ようやく午前一一時四五分に至り、同控訴人を診察し、しかも、症状の全体的把握ができず、血圧の上昇のみからクッシング現象と診断し、脳浮腫の原因疾患を除去することなく対症療法を施すにとどまったことは、脳組織が低酸素症により短時間のうちに不可逆的な病変を生じることに照らし、不適切な処置であったといわなければならない。そして、そのため同控訴人は人工呼吸器による調節呼吸の適期を逸し植物状態に陥ったものであるから、同医師には右注意義務違背の過失があり、また、右処置と控訴人洋子の植物状態なる症状との間には相当因果関係があるというべきである。また、既に前記四で判断したところによれば、午後一時すぎの時点において、同控訴人はもはや植物状態に陥っていた蓋然性が高度であるから、第二回目の心停止は、これにより控訴人洋子を植物状態に陥らしめたというよりは、控訴人洋子の植物状態を決定的にし、かつ、これを完成させたものと認めるのが相当である。

4  被控訴人の責任原因について

被控訴人は被控訴人病院の経営者であって、平山医師を雇用してこの患者の診療にあたらせてきたものであることは前示のとおりであるから、被控訴人には、その余の点について判断するまでもなく、民法七一五条一項に基づき、同医師が前記過失により控訴人らに与えた後記損害を賠償すべき責任がある。

六  控訴人らの損害について検討する。

1  控訴人洋子について

(一)  治療費

《証拠省略》によれば、控訴人洋子は被控訴人病院における治療費として一九八万一七九四円の支払を必要としたことが認められる。なお、野瀬病院の治療費については、公費負担分以外控訴人洋子において治療費を支払ったことを認めるに足りる証拠はない。

(二)  諸雑費

前記二で認定した事実に、《証拠省略》を総合すると、控訴人洋子は前示のとおり植物状態に陥り、その自宅療養に必要な、おむつ・家庭用薬品・清拭剤等雑費として、年間約二二万円の支出を余儀なくされたことが認められる。

右認定事実と《証拠省略》によって認められる控訴人洋子の療養生活の実情等に鑑みれば、同控訴人は、植物状態に陥った者として日常生活維持のための諸費用として、その生涯にわたり、年額二二万円を必要とするものというべきである。

ところで、当裁判所に顕著な厚生省昭和四九年簡易生命表によれば、一五歳女子の平均余命は六二・四四年であるが、控訴人洋子の場合、《証拠省略》に照らすと、余命年数はほぼ二〇年(退院の日である昭和五一年八月二五日からは一八年)とみるのを相当とするところ、この間毎年二二万円の割合による全額を一時に支払を受けるものとして、年別のホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現価を算定すると、二四七万六〇一二円となる。

(算式)220,000×(13.1160-1.8614)=2,476,012

(三)  付添看護料

前記認定のとおり、控訴人洋子はその生涯にわたり付添看護を要するところ、控訴人正夫、同玉端が健在であるうちは同控訴人らが控訴人洋子の付添看護をつとめることが認められ、その後においては適当な付添看護人を付することが推測されるところ、その費用は経験則上一日三〇〇〇円を下らないものと認めるのが相当である。そして、前示のように、控訴人洋子の余命年数は二〇年(前記退院の日からとすると一八年)とみるのを相当とするから、同控訴人の生涯にわたる付添看護費は、年別のホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現価を算定すると、一二三二万三七八七円となる。

(算式)3,000×365×(13.1160-1.8614)=12,323,787

(四)  逸失利益

前記二で認定した事実によれば、控訴人洋子は、生涯にわたり、その労働能力を喪失したものと認められ、昭和四九年の賃金センサス第一巻第一表企業規模計学歴計女子労働者一八歳ないし一九歳の平均給与額は一か年八七万六七〇〇円であるところ、同控訴人は本件がなければ一八歳から六七歳まで四七年間就労が可能であり、その間右程度の収入を得ることができたと考えられるところ、同控訴人は本件当時一五歳であったから、その逸失利益を年別のホフマン式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、一九七五万二四〇一円となる。

(算式)876,700×22.5304=19,752,401

(五)  慰藉料

前記二で認定した事実によれば、控訴人洋子は、一五歳の時に本件により植物状態に陥り、約四年八か月にわたる入院を余儀なくされた上、その労働能力をすべて失い、他人の付添看護がなければその生存すら不可能な身体障害者となったものであり、同控訴人がそのため多大の苦痛を被ったことは明らかであり、その他本件に現われた一切の事情を勘案すると、その慰藉料は一二〇〇万円が相当である。

(六)  弁護士費用

本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、控訴人洋子が被控訴人に対して本件不法行為による損害として賠償を求め得る弁護士費用は五〇〇万円とするのが相当である。

2  控訴人正夫及び同玉端について

前記一及び二で認定した事実によれば、控訴人洋子の両親である同正夫及び同玉端は、本件不法行為により、その最愛の娘が植物状態になり、その死亡にも比肩すべき精神的苦痛を被ったことは明らかである上、生涯、娘の日常生活の看護の負担を負わなければならなくなったのであって、その心痛の甚大なことは容易に推察することができるが、他方、本件のフグ食の調理をした者が右控訴人らの娘の夫であることその他本件にあらわれた諸般の事情を斟酌すると、その慰藉料は、各三〇〇万円をもって相当と認める。

七  しかるところ、控訴人洋子の請求は、前記の損害の範囲内である金五〇〇〇万円及びこれに対する本件不法行為の後である昭和四九年九月一九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるものであるから、そのすべてを理由ありとして認容すべきであり、また、控訴人正夫及び同玉端の請求は右に認めた損害各金三〇〇万円及びこれに対する本件不法行為の後の日である昭和四九年九月一九日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由ありとして認容すべきであるが、その余は失当として棄却すべきものである。なお、不法行為に基づく損害賠償請求を認容する関係上、これと選択的併合の関係にある準委任契約の不履行に基づく損害賠償請求については判断をしない。

八  しかるところ、原判決は控訴人らの請求を全部棄却しており、控訴人洋子の控訴は全部理由があるから、原判決中同控訴人関係部分を取消した上、同控訴人の請求を認容し、控訴人正夫、同玉端の控訴は一部理由があるから、原判決中同控訴人ら関係部分を主文第二項のとおり変更し、訴訟費用の負担につき民訴法第九六条、八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 今中道信 裁判官 仲江利政 佐々木茂美)

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